豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康の時代となります。
「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」と言われたように、待ちに待った時代が来たわけです。
徳川家康は江戸幕府を開き、その後、260年にわたって江戸幕府が日本を治める時代が続きます。
江戸時代は、260年という長い期間となりますので、前半・後半に分けて勉強すると良いでしょう。
今回は江戸時代に行われた「鎖国の成立」までのポイントについてを見ていきましょう。
前回の内容中学・高校受験の社会の歴史(安土桃山時代のポイント)
江戸時代
江戸時代:1603年〜1867年
豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康は江戸(東京都)に幕府を開き、以後260年を江戸時代といった。
徳川家康の政治
まず、徳川家康について見ていきましょう。
徳川家康は三河国(愛知県)の小大名の家に生まれた。
幼い頃は、今川氏や織田氏のもとに人質として出された。
成人となった徳川家康は、桶狭間の戦い(◯織田信長VS✖今川義元)ののちに独立した。
織田信長や豊臣秀吉の天下統一に協力する中で力をたくわえた。
関ヶ原の戦い(1600年)
1600年と区切りがいい年なので、年号を覚えるようにしましょう。
豊臣家を守ろうとする石田三成は徳川家康と対立するようになり、ついに「天下分け目の戦い」と呼ばれる関ヶ原の戦い(岐阜県)が起こる。
徳川家康率いる東軍が勝利する。
江戸幕府の成立(1603年)
1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。
2年後、徳川家康は息子の徳川秀忠に将軍職をゆずり、徳川家の天下が続くことを世にしめした。
大阪冬の陣(1614年)・夏の陣(1615年)
江戸幕府が出来ても、豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼とその母の淀君が大阪城にいた。
徳川家と豊臣家の対立が強まり、徳川家康は2度にわたり大阪城を攻めた。(大阪冬の陣・夏の陣)
その結果、豊臣家は滅びる。
豊臣家が滅びた翌年、徳川家康は亡くなり日光東照宮(栃木県)にまつられた。
江戸幕府のしくみ
江戸幕府のしくみは、3代将軍の徳川家光の頃までに確立した。
江戸幕府は将軍を中心に、将軍を助ける老中が政治を行い、非常時には臨時の大老が置かれた。
- 大目付:大名の監視
- 町奉行:江戸の市政
- 勘定奉行:財政・天領
- 遠国奉行:大阪・京都・長崎・佐渡など
- 若年寄:老中をたすけるー目付:旗本の監視
- 寺社奉行:寺社の取り締まり
- 京都所司代:朝廷と西国大名の監視
- 大阪城代:西日本の軍事
江戸幕府は全国の土地全ての支配をしたのではなく、地方の大名の領地(藩)の支配は各地の大名がし、幕府が監督をした。
このような政治体制を幕藩体制という。
水戸藩・紀伊藩・尾張藩は御三家と呼ばれ、将軍に跡継ぎがいない場合は、御三家から将軍が選ばれた
①家康→②秀忠→③家光→④家綱→⑤綱吉→⑥家宣→⑦家継→⑧吉宗→⑨家重→⑩家治→⑪家斉→⑫家慶→⑬家定→⑭家茂→⑮慶喜
大名の種類
1万石以上の領地を持つ武士を大名という。
親藩:徳川家の親類
譜代大名:古くから徳川家に仕えた大名
外様大名:関ヶ原の戦い以降に従った大名
譜代大名は徳川家の信頼が厚いため、大老や老中などの役職についた。
外様大名は反乱を防ぐため江戸から離れた場所に領地が置かれた
大名の統制
2代将軍徳川秀忠の時、武家諸法度(大名を統制する法)が制定された。
3代将軍徳川家光の時、参勤交代の制度が追加された。
参勤交代のため、大名は江戸と領地を移動しなくてはならなかった。
江戸屋敷の費用や大名行列の旅費などにより、大名の経済力を弱める結果となった。
朝廷の統制
幕府は朝廷の監視のため京都所司代を置いた。
禁中並公家諸法度という法によって、朝廷の行動を取り締まった。
江戸時代の身分制度と民衆
江戸時代の社会は武士・百姓(農民)・町人(職人・商人)といった厳しい身分制度があった。(百姓84%・武士7%・町人6%・その他3%)
武士は苗字を持ち、刀を差すことが認められていた。
百姓は年貢として40〜50%の米を納め、武士の生活を支えていた。
五人組がつくられ、年貢を納めることや犯罪について連帯で責任を負わせた。
町人(職人・商人)は重い年貢の負担はなく、百姓に比べ自由な暮らしを送っていた。
江戸時代には、百姓や町人とは別に、厳しい差別(職業や住居など)を受ける身分の人々がいた。
江戸時代の外交
徳川家康は大商人に海外へ渡る許可証(朱印状)を与え、貿易を盛んにした。
朱印状を与えられた船を朱印船といい、東南アジアの各地に進出した。
このような貿易を朱印船貿易という。
東南アジアの各都市には日本人の商人が住む日本町が出来た。
山田長政はシャム(現在のタイ)のアユタヤの日本町で活躍し、国王に認められ高官となったといわれる
朝鮮との外交
朝鮮とは豊臣秀吉の朝鮮出兵以来、関係が悪化していた。
対馬藩(長崎県)の宗氏を通じて国交を回復し、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使と呼ばれる使節が江戸を訪れるようになった。
その他の国との外交
徳川家康はイギリス人のウィリアム=アダムズとオランダ人のヤン=ヨーステンを外交の相談役にした。
※1600年に豊後国(大分県)に流れ着いたリーフデ号の乗組員だった
鎖国
鎖国とは、外国との交流を制限し、限られた国とのみ外交関係を持つこと。
- 身分制度を重視する幕府の考え方と、キリスト教の考え方(神の下の平等)が合わなかったから
- 貿易や外国の技術・情報を幕府が独占出来たから
1612年 幕府の領地に禁教令が出される
1624年 スペイン船の来航禁止
1635年 日本人の海外渡航・帰国の禁止
1637年 島原・天草一揆(天草四郎が中心)
1639年 ポルトガル船の来航禁止
1641年 オランダ商館を長崎の出島に移す
島原・天草一揆がおさまると、幕府はキリシタンを発見するため、絵踏を強化した。
また、必ずどこかの寺院に属させる寺請制度を行った。
鎖国中に交流のあった国と地域
オランダ:長崎の出島で貿易
清:長崎の唐人屋敷で貿易
朝鮮:対馬藩が釜山(朝鮮)で貿易
蝦夷地:松前藩が先住民族のアイヌと交易
アイヌとの交易はアイヌに不利なもので、1669年アイヌの族長シャクシャインは松前藩に対し反乱を起こした。
琉球王国:薩摩藩によって制服された
江戸時代の学問
江戸時代になると世の中が平和になり、武士には政治家としての能力が求められた。
朱子学:儒教の中でも身分の上下関係を重んじていたので、幕府の正式な学問となった
幕府政治の基礎をなすものとして、幕府の学問所で講義が行われた。
まとめ
徳川家康が江戸幕府を開いてから260年続く江戸時代。
中学・高校受験の社会の歴史では頻出の単元となります。
覚えることが多いので、江戸時代前半・江戸時代後半に分けて覚えると良いでしょう。
江戸時代前半のポイントは上に書いた通りですが、覚えることが沢山あります。
流れを確認しながらジャンル別に覚えていくようにすると効率良く覚えることが出来ると思います。
特に鎖国と鎖国中の外交については、よく出題されますので、鎖国への歩みの順番(年号は後回しでも大丈夫)、貿易・交易をしていた国と担当となった藩を整理しておきましょう。
江戸時代後半も覚えることが多いですので、まずは江戸時代前半までをノートにまとめ、覚えていくようにして下さい。